流行りの「ほぼほぼ」が気持ち悪い理由

ここ数年ほどの間に「ほぼほぼ」という言葉を耳にする機会が多くなった。昨年には三省堂の今年の新語2016の大賞に選ばれるほどに世間に広まったこの「ほぼほぼ」という言葉。流行語というのはどれもそうだけど、特にこの言葉に対しては言いようのない嫌悪感を覚えるという人が少なからずいるようで、「ほぼほぼ」と検索すると関連キーワードとして「ほぼほぼ 嫌い」「ほぼほぼ 気持ち悪い」「ほぼほぼ うざい」「ほぼほぼ イラつく」などの言葉が並んでいる。なぜほぼほぼは嫌われるのだろうか。このページでは「ほぼほぼ」について普段から考えていることを書いておこうと思う。

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アクセントが原因か

ネットで「ほぼほぼ 嫌い」などと検索すると「ほぼほぼ」が生理的に受け付けないという人が結構見受けられる。だいたいそういう書き込みを見ると「日本語としておかしいから」「 ”ほぼ” だけでいいし ”ほとんど”、”だいたい” 等の単語で事足りるから ”ほぼほぼ” は必要ない」とったことを嫌いな理由として挙げている。しかしこういう言い分は流行語とか若者言葉を批判するときにありがちな後付けの理由で彼らの本音は「生理的に無理だから」というのが正直なところだろうと思う。

ではどうして生理的に受け付けないのか。おそらく「ほぼほぼ」のアクセントにその原因があるのではないだろうか。特に最近「ほぼほぼ」というのはそのほとんどが平板型のアクセントで発音されている。つまり「ほぼほぼ」が人に嫌悪感を抱かせる原因は「新参の聞きなれない日本語+平板型アクセント」という二つの要素だろうと考える。

平板型アクセントとは

日本語のアクセントというのは高低アクセントで、語の中で音の高さが変化する位置によって大きく平板型、頭高型、中高型、尾高方の4種類に分類される。(→詳しくはwikipediaの記事を参照)

このうち問題の平板型アクセントとは要するにアクセントが存在しない無アクセントのことで、近年の日本語の大きな変化の一つである「アクセントの平板化」の流れの中の主役でもある。アクセントの平板化の例として今すぐに思いつくのはたとえば「彼氏」「画面」「ギター」などだろうか。これらは本来は頭高型つまり「高低低」と発音されていたのだが近年若者を中心として平板型つまり無アクセントの発音へと変化している。実際に若者がどうやって発音しているかを思い起こしてみればすぐにわかると思う。こういう本来アクセントがあった単語が無アクセントへ変化することをアクセントの平板化と呼ぶ。言語学的な視点から見れば日本語の自然な変化としてとらえるべきものなんだろうけども、保守的(というよりも規範主義的)な人を中心に日本語の乱れの一つとして扱われることもある。

平板化はなぜ起こるのかということについてはいろいろな考えがあってこれと言った正解は見当たらない。手掛かりになるのは平板化したアクセントには業界用語的な雰囲気が漂っているという事実だ。この「業界用語的なにおい」こそ平板化の起こる理由ではないだろうか。

平板化することで符丁になる

頭高型のアクセントを平板化するとその単語について専門家のようによく知っているという意識を生むという意味で平板化したアクセントは専門家アクセントとも呼ばれる。アクセントの平板化はその単語を「よく知っている」とか「慣れ親しんでいる」という意識から生まれ、また逆にそういう意識を生み出す。

一般的に同じ興味関心を持つ人が集まるとその中でしか通じない言葉や慣習が生まれやすい。なぜかというとそういった仲間内でしか用いられない言葉を使うのがそのグループへの帰属を確認する手段の一つとして重要な役割を演じているからだ。業界用語・符丁を使うことで自分がその集団に属しているということが確かめられ仲間意識が強化される。

アクセントの平板化というのもこういった仲間意識を生みだして帰属を担保するための現象の一つと考えるのがわかりやすいだろうと思う。つまりアクセントを平板化することで平凡な単語が業界用語、あるいは符丁としての役割を獲得するのだ。事実、アクセントの平板化はその単語をよく使う集団から生まれることが知られている。

「ほぼほぼ」もおそらくどこかの集団・仲間内(後で言うようにテレビ関係者の可能性がある)でアクセントが平板化したものがここ数年のうちに全国化したものと思われる。

「ほぼほぼ」だけが特別か?

「ほぼほぼ」と似た言葉のアクセントはどうなっているのだろうか。「ほぼほぼ」のような畳語で平板型のアクセントは形容動詞に多い。しかし「ほぼほぼ」は「何々はほぼほぼだ」のように用いられることはないから形容動詞は除外して考える。「ほぼほぼ」は副詞的な意味しかない。では畳語かつ副詞で平板型の単語はあるのか。今思いつくものを挙げると

  • いろいろできた
  • いやいや引き受ける
  • うすうす気づいている
  • たびたび世話になる
  • たまたま出会った
  • ときどき現れる
  • なかなかきれいだ
  • なくなく手放す
  • のちのち分かる
  • みすみす見逃す
  • もともと知っていた
  • よくよく考える
  • よなよな出かける

結構あるけど、これらの言葉を生理的に受け付けない人がいるとはあまり思えない。おそらく「ほぼほぼ」に比べればかなり受け入れられている言葉ばかりだろう。なかでも特に「よくよく」というのは「ほぼほぼ」とそっくりである。「よく考える」でも通じるところを「よくよく考える」ということもできるしアクセントも全く同じである(…とここまで考えて、もしかしたら年配の人はよくよくを平板で発音しないのではないかとちょっと思ったがまあいいとしよう)。

こういった「ほぼほぼ」と同じタイプの単語が受け入れられているのに「ほぼほぼ」だけが一部の人から嫌われているのはなぜか。理由としては「ほぼほぼ」が近年のアクセントの平板化の流れの中で生まれた言葉であり、平板化したアクセントの持つ独特の排他的な雰囲気によって「ほぼほぼ」に慣れ親しんでいない人に嫌悪感を与えるためだというのが一番真相に近いんじゃないだろうか。上に列挙した単語はアクセントの平板化が符丁的な役割を演じるようになる以前にすでに日本語として定着したもので、そういった嫌悪感をひきおこさずに済んだでのではないだろうか。もちろんこれは憶測でしかないが。

水曜日のダウンタウン起源説

ほぼほぼがいつから使われ始めたのかを正確に知るすべはないが、思い返すとはじめて「ほぼほぼ」を聞いたのは水曜日のダウンタウンというテレビ番組だった。2014年ごろから「○○な人ほぼほぼ○○説」といったタイトルが結構あったと記憶している。そして世間で「ほぼほぼ」をよく耳にするようになったのもちょうど同じ時期だった。中にはもっと早い時期から使っていたという人もいるかもしれない。確かに「ほぼほぼ」という単語自体の使用例はかなり古くからあるようだけどもそれは「ほぼ」を二回繰り返しただけのもの、つまり「高低高低」と発音される「ぼ」であって、平板型で発音されるひとつの単語としての「ほぼほぼ」ではないはずだ。意味と字面がまったく同じでもアクセントが違うと与える印象が全然違うのでこれらの二つは区別する必要がある。そうすると、平板型の「ほぼほぼ」の起源はおそらく10年と遡らないだろう。あるいは起源自体は別のところにあるとしても少なくとも全国的に「ほぼほぼ」が広まった主な原因の一つにこの水曜日のダウンタウンがあると言っていいのではないだろうか。

ちなみに水曜日のダウンタウンと言えば、確か2014年ごろのくまモンのアクセントにまつわる説で斎藤孝が出てきてアクセントの平板化を取り上げていた。平板化が起こる理由を「興奮していないことを相手に示すため」としていたが、あまりうまく説明できているとは思えない。やはり「平板化=業界用語化」という説をおしたい。

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