掛け算の順序教育を擁護する

20世紀後半からたびたび問題となり、近年ではインターネットとsnsの普及で毎年決まった時期になると話題になる掛け算の順序問題。これがなぜ一向に解決しないかというと毎回毎回順序を教えることにヒステリックに反対する人の存在があるためである。小学校低学年の子供を持つ親たちは一見したところ式も答えも正解であるはずの自分の子供の答案にバツがついていることに疑問を抱き問題提起すると、そこに自称理系人間の野次馬とか数学教育にはあまり明るくないと思われる数学の専門家とかが寄ってたかって小学校教員の無能ぶりをあげつらい、「近頃の日本の教師は・・・」とため息をつく。この構図は毎回変わらない。もちろん掛け算の順序教育を擁護する意見も出てはいるものの、その声は批判派の耳には届いていないか、あるいは批判したいだけの野次馬であるがゆえにろくに聞こうともされていないのが現状ではないだろうか。ここでは批判派の主張に反論するという形で順序教育を擁護したい。

すべての掛け算に順序を強制しているか

小学校の数学教育ではすべての掛け算に順序があると教えている

これは明らかな勘違いで、もちろんすべての掛け算で順序を守るよう指導しているという事実はない。なかにはそういう教員もいるかもしれないがそれは例外である。順序を守るように言われるとすればそれは

(ひとつあたりの数)×(いくつ)

(単位)×(いくつ)

といった意味で解釈できる計算だけであって、たとえば長方形の面積のようにかけ合わせる二つの数の意味が本質的に対等である場合は「乗数」「被乗数」といった区別をするように言われることはない。しかも順序を守るように指導されるのは低学年の内だけである場合が多く、高学年になれば順序が逆でも正解とされることもある。どうするかは教員次第だが、小学校の数学教育のすべてを通して順序の考え方が支配していると考えるのは大げさである。

交換法則は成り立つか

交換法則は絶対的な真理だし、計算の結果もあっているんだから問題ないはずだ

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交換法則は小学校の教師ごときが侵してはいけない宇宙の真理だ、などと大げさなことを口にする自称理系人間もいるが、交換法則というのは小学校の段階であれば長方形の面積の計算や量どうしの掛け算についてだけ積極的に取り上げるべき代物であるし、あるいは中学高校と進み、式の持つ意味から離れた抽象的な計算を扱う段階になって初めて意識すればよい程度の性質である。小学校低学年の段階では(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の計算については交換法則は成立しませんと教えても支障はないし(むしろ教育的観点からはそのほうが良い)小学校高学年か中学生になってからで十分である。それに交換法則は長方形の面積の計算のときに教えれば、交換法則を全然知らないまま成長するということもなくなる。

意味を教えることと順序を教えることは表裏一体

式の持つ意味を理解していればどちらの順番で書いてもいいのではないか。(ひとつあたりの数)を先に書く合理的な根拠は存在せず、完全に個人の趣味の問題である。式の持つ意味を十分に理解したうえで自分の好きなほうで書いている児童もいるはずだ。

これについてのよくある反対意見は以下のようなものである。

「逆の順序を許してしまうとたとえば4×7という式について

(ひとつあたり4個)×(7つ)

(4つ)×(ひとつあたり7個)

という二通りの解釈ができてしまい曖昧であるからよくない。」

しかしこれは批判派の疑問にうまく応えられているようには見えない。批判派の心中はこうだろう。「百歩譲って順序を固定するように教えるとしてもなぜ(ひとつあたりの数)が先なのか?(いくつ)のほうを先に書くように教えるのではどうしてだめなのか?どちらを先にするか有意義な理由がないのに一方を強制するのはおかしい。」さらには、実態はよく知らないが、ものの本によると欧米の国々の中には(ひとつあたりの数)を後に書くように指導するところもあるそうである。こうなってくるとますます順序に合理的な根拠は存在しないかに思える。

こうした批判派に対する回答はこうだ。なぜ(ひとつあたりの数)×(いくつ)という順番なのか言えば、このほうが人間の思考の流れとして自然で理にかなっているからである。一方で(いくつ)×(ひとつあたりの数)というのは不自然なうえに実用的ではない。

たとえば長方形の面積の計算で使う2辺の長さはどちらが縦でどちらが横かというのは面積を求める上で本質的にどうでもいい区別であり2辺の長さは数として対等である。しかし(ひとつあたりの数)と(いくつ)という意味を持つ二つの数は対等ではない。(ひとつあたりの数)というのは普遍的で抽象的な数であるのに対して(いくつ)というのは個別的で具体的な数である。言い換えると(ひとつあたりの数)は普遍的であるがゆえに多くの場合に適用できる法則であり、(いくつ)はその場限りで場合によって変わる個体的な対象である。人間の自然な思考の流れとして普遍的な法則がまず先にあり、そこに後から場合場合の個別的な値を代入していくのが普通である。

たとえば料理(カレー)を作るとする。カレーのレシピは多種多様で家庭ごとに異なるが、たとえばAさんの家では肉をひとりあたり50g入れるというふうにきっちり決まっているとする。これはAさんの家でカレーを作るときには普遍的に成り立つ法則である。そして時と場合により人数が変わるのでそのたびにこの法則に人数をあてはめ計算をする。ある日は家族4人だけなので50×4で200gの肉を用意すればよい。また別のある日は来客があり12人分のカレーを作らなければいけないので50×12で600gの肉を用意すればいいことがわかる。このようにまず法則が先にあってそのあとに値を代入する。反対に人数が先に決まることはあり得ない。なぜかというと人数を考える段階ですでにカレーを作ること、そしてそれと同時に肉の量を決める法則が念頭にないと(いくつ)の単位が人数であることが決まらないから。つまり、単位で考えると

(g/1人)×(何人)

はあり得るが、その逆はあり得ない。先に(ひとつあたりの数)の単位の分母がわかっていない段階で(いくつ)の単位がわかるはずがない。

(何人)×(?)

これだと、どうして(いくつ)にあたる数の単位が(人)であることがわかったのかという問題が出てくる。しかも、仮に単位が人数であることがわかっていたとしても(ひとつあたりの数)の分母が(g/2人)なのかもしれないし(g/4人)なのかもしれない。どのみち(ひとつあたりの数)を先に考えざるを得ないわけだ。これが人間の思考の自然な流れである。

ここまで話したことはなにも料理の場合だけではなく(ひとつあたりの数)×(いくつ)というふうに解釈できる計算すべてにあてはまることである。

さらに、もっと別の例えをすると(ひとつあたりの数)というのがいわば定数であり、(いくつ)というのは変数であるともいえる。定数が先にある値に決まったうえで変数がある範囲の中で変化すると考えるのが普通である(これが反対になることもあるがそれは量どうしの積としてのいわゆる複比例の考え方であってここでの計算とは別の話である)。また、中学高校の物理、化学の法則では定数を先に書き変数を後に書く場合が多いことを考えると後々のために小学校低学年の段階から(ひとつあたりの数)×(いくつ)という順番を採用して慣れておくほうがよさそうだ。

海外の言語の中には(いくつ)×(ひとつあたりの数)という順番で書くところもあるかもしれないがこれはその言語の慣習で「何倍の何」と表現することに由来するだけで、上に書いたような理由からより合理的なのはどちらかと言えば日本語式の「何の何倍」、つまり(ひとつあたりの数)×(いくつ)のほうである。

選択肢を制限することの是非

選択肢を狭めることで数学的能力の発達を妨げたり、子供の数学に対する興味を失わせるのではないか

まず前提として、冒頭であったようにすべての掛け算について順序を強制しているわけではないということを分かっておく必要がある。

さらに問題となっている順序教育はほとんどの場合小学校低学年の習い始めの段階で行われているということを考えないといけない。10才に満たないような幼い子供に対して「こういう場合もあるし、こういう場合もある。どちらでも間違いではないけど、どちらにするかは君次第だよ」というよりも「こういう時はこうだよ」とはっきりと指示をしたほうがすんなりと覚えられる。

これは小学校低学年の子供だけの話ではない。大人のわれわれにとっても何か新しい分野を学び始める時は複雑な場合分けをできるだけ排除し、単純化して選択肢を狭め、簡単な場合から始め、徐々に慣れてきたらより複雑な場合に進む。初めて習う分野で「ここでは複数の選択肢があるけど、どれを選ぶかはあなたの自由です」とだけ言われても行き詰ってしまう。

教育上の観点からもまずは順序があるとして教え、後から実は交換してもいいよと教えるほうがいいだろうと思われる。

バツにするのはやりすぎかどうか

百歩譲って順序を教えるのはいいとしても順序を間違えただけでバツにするのはやりすぎではないか

実際の小学生を見ていると順序を逆にするのは問題文にふたつの数字がその順番で出てきたからそのまま書いたという場合が最も多い。反対に書く子は事実、よく理解していないのである。

批判派が空想するような「完全に理解したうえで好きな順番で書く児童に対して理不尽にバツをつける教師」という構図は実際にはほとんど存在しない。

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コメント

  1. 通りすがり より:

    >たとえば長方形の面積のようにかけ合わせる二つの数の意味が本質的に対等である場合は「乗数」「被乗数」といった区別をするように言われることはない。
    「抵抗と電流」や「重さと支点からの距離」などは、ここで言う”本質的に対等”に含まれるのでしょうか?
    >低学年の内だけである場合が多く、高学年になれば順序が逆でも正解とされることもある。
    テストで正解とされることはありますが、順序を守らなければならないことが間違いだったと教えられるわけではありません。しばしば「厳密には間違いだが、意識しなくても支障はないし、今の単元の要点ではないからバツをつけていないだけ」と思ってる人がいます。
    >交換法則というのは小学校の段階であれば長方形の面積の計算や量どうしの掛け算についてだけ積極的に取り上げるべき代物である
    交換法則は量どうしの掛け算が出てこない2年生で習うと定められている掛け算の基本の一つです。実際に成立するにもかかわらず1つ当たり×幾つ分では成立しないと教えるのは不可解極まりないです。教育的に有害としか思えません。
    >Aさんの家では肉をひとりあたり50g入れるというふうにきっちり決まっているとする。
    Aさんが偶々そうなっているだけで、普通は決まってません。運動した日は多くしたり、冷蔵庫の残りやスーパーの品揃えに左右されたりします。むしろ家族4人分の料理を作ることの方が変わりづらいでしょう。
    どちらも変わりうる以上、一方が定数で一方が変数と考えるより、複比例していると考えるほうが自然かと思います。量どうしでないと複比例にならないと考えるのは不合理です。
    >(いくつ)の単位が人数であることが決まらないから。
    このくだりは意味が全く分かりません。
    「ひとりあたり50g」と「家族4人」は独立した情報です。問いの状況からそれぞれに決まるものであり、一方の単位がもう一方の単位を決めるわけではないでしょう。
    >(ひとつあたりの数)というのは普遍的で抽象的な数であるのに対して(いくつ)というのは個別的で具体的な数である。
    >(ひとつあたりの数)というのがいわば定数であり、(いくつ)というのは変数であるともいえる。
    定数を先に変数を後に書く3aのような表記は、「aが3つ」を海外式で書いているわけですが。
    そして、定数3が具体的な数であるのに対し、変数aは値の明確でない抽象的な数です。
    >中学高校の物理、化学の法則では定数を先に書き変数を後に書く場合が多い
    静止エネルギーE-mc^2はcが定数です。気体の状態方程式pV=nRTはRが定数でnが(いくつ)です。
    >「こういう時はこうだよ」とはっきりと指示をしたほうがすんなりと覚えられる。
    「こうでもいいし、ああでもいい」という場合に「こうだよ」と教えるだけならかまいません。
    しかし、「ああでもいい」と”教えない”ことと「ああでは駄目」と”教える”ことは全く違います。
    >後から実は交換してもいいよと教えるほうがいいだろうと思われる。
    後というのが2年の掛け算の授業の後半を指すなら、それでもいいでしょう。
    >順序を逆にするのは問題文にふたつの数字がその順番で出てきたからそのまま書いたという場合が最も多い。
    そういう場合もありますが、それが全てではありませんよね。理解した上で順序が逆の場合も少なくありません。
    順序が逆でなくても「答えと単位が同じ方が先」としているだけで理解していない場合もあります。理解しているかどうかの確認方法としては不適切です。
    >「完全に理解したうえで好きな順番で書く児童に対して理不尽にバツをつける教師」という構図は実際にはほとんど存在しない。
    逆順がバツなら、理解してない子もバツでしょうが、理解してたうえで逆順にした子にもバツをつけていることになるでしょう。

    トランプ配りや「兎4羽の耳は1羽2本の4羽分か片耳4本の両耳分か」「三色団子4串の団子数は1色4個の3色分か1串3個の4串分か」のように、どちらが1つ当たりでどちらが幾つ分かは決まっていないという意見に対する反論はありませんか?

    • hishakaijin より:

      コメントありがとうございます。大変参考になりました。一応自分の考えを書いておきます。

      >>「抵抗と電流」や「重さと支点からの距離」などは、ここで言う”本質的に対等”に含まれるのでしょうか?

      長方形の面積については辺の次元が同じなので縦と横の区別に本質的な違いは存在しないという意味で「本質的に対等」と表現しました。オームの法則やてこの原理は2つの数の関係が長方形の面積における2辺の関係とは明らかに違うのでここで言う本質的に対等というのには含まれません。
      ********************
      >>テストで正解とされることはありますが、順序を守らなければならないことが間違いだったと教えられるわけではありません。しばしば「厳密には間違いだが、意識しなくても支障はないし、今の単元の要点ではないからバツをつけていないだけ」と思ってる人がいます。

      順序を守らなければならないことが「間違い」だったと教える必要はないと思います。もちろんそうやって教えてもいいですが、誰かが間違いだと断言しなければ間違いだとは思わないでしょう。(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の式については交換法則が成り立たない(あるいはもっと穏当に交換法則を意識する必要はない)と大人になるまで考えていても問題ありません。これは反対派の人からするととんでもないことかと思われるかもしれませんが、実際式の意味を考えるのは応用の場面だけです。日常生活で単価はいくらで、いくつ買うから合計でいくらというような計算を考えるときに順序を守ると刷り込まれていたとしても計算するうえで何の支障もありません。小学校で習うような具体的な意味を持った計算と違い、中学高校の数学では具体的な意味を考えることをやめ抽象的な計算をするようになりますからその時は交換法則を前面に出して教えるべきだと思っています。(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の計算については交換法則は成立せず、それ以外の意味の掛け算や具体的な意味を持たない抽象的な代数計算については交換法則が成立するという理解でも実用上何ら支障はありません。
      この記事での主張の要点は次の通りです
      1.(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の式については交換法則が成り立たないとしても応用上何の問題もない。
      2.交換法則はもし積極的に教えるとすれば長方形の面積の計算や量どうしの積ですべきである。
      3.中学高校の数学での式の具体的な解釈を考えない抽象的な代数計算では交換法則を教えるべきである。
      ********************
      >>交換法則は量どうしの掛け算が出てこない2年生で習うと定められている掛け算の基本の一つです。実際に成立するにもかかわらず1つ当たり×幾つ分では成立しないと教えるのは不可解極まりないです。教育的に有害としか思えません。

      この点については上のと同じ回答になります。
      ********************
      >>Aさんが偶々そうなっているだけで、普通は決まってません。運動した日は多くしたり、冷蔵庫の残りやスーパーの品揃えに左右されたりします。むしろ家族4人分の料理を作ることの方が変わりづらいでしょう。
      >>どちらも変わりうる以上、一方が定数で一方が変数と考えるより、複比例していると考えるほうが自然かと思います。量どうしでないと複比例にならないと考えるのは不合理です。

      そうですね・・・。ここでの例えは少し悪かったかもしれません。我が家の感覚ではカレーを作るときはルーのパックの裏の表示通り50g用意するので違和感がありませんでした。
      ただし普遍的な法則というのはとりあえず「Aさんの家」のような狭い範囲でも成立します。すべてのカレー作りで成り立つという条件を付けたわけではないのであくまで「Aさんの家の範囲内で次の法則が成り立つ」としただけです。それでもAさんの家の範囲内に限って様々なときに当てはめることができるので普遍的であると言えます。運動をしたかどうか、冷蔵庫に残りがあるかどうか、スーパーの品ぞろえなどについてはここでは条件として入れていないので関係ありません。そして人数が変わりやすい変わりにくいかというのも関係ありません。人数は理論的には(0もふくめて)自然数の範囲内を変化しうるので、そこに「しやすい」「しにくい」という考えを持ち込む必要はありません。1000人分のカレーを作ることはあり得ないと思えば人数は適当に20以下とでもすればいいです。別に30以下でもいいですが。あくまで、ある条件でこういう法則が成り立つと話を進めたかったのでとりあえずこの例で一応納得してもらうしかありません。
      それと(g/人)×(人)という意味の式を複比例と考えるのはできないことはありませんが普通はしません。(人)というのはそれだけでは定数となりえませんから(g/人)×(人)という意味の式で肉の量が人数に比例するということはできても一人当たりの肉の量に比例するということはできません。
      ********************
      >>このくだりは意味が全く分かりません。
      >>「ひとりあたり50g」と「家族4人」は独立した情報です。問いの状況からそれぞれに決まるものであり、一方の単位がもう一方の単位を決めるわけではないでしょう。

      「ひとりあたり50g」という情報に「ひとり」という人数の情報が含まれていますから「家族4人」という情報は「ひとりあたり50g」という情報に依存していると言えます。確かに家族4人という情報それ自体はカレー作りと全く関係なく独立に存在しますが、ここで問題になっている個別的な場合において「家族が4人」という情報が出てくるのは「ひとりあたり50g」という情報が先だって考えられているためです。
      ********************
      >>定数を先に変数を後に書く3aのような表記は、「aが3つ」を海外式で書いているわけですが。
      >>そして、定数3が具体的な数であるのに対し、変数aは値の明確でない抽象的な数です。

      3aというのはたしかにaが3つというふうにも解釈できますが、aに値を代入するところまでを考えると3がa個と考えたほうがいいように思います。抽象的な数学の範囲内だけならaが3つでもいいのではないでしょうか。
      それと(ひとつあたりの数)が抽象的で(いくつ)が具体的と書いたのは軽率でした。確かにおっしゃるように文字式で考えれば3が具体的でaが抽象的と言えますが、実際に値を代入すると3がより抽象的でaに代入した値がより具体的になります。代入後の式の見た目からはどちらもある特定の数なのだから両方具体的だと思われるでしょうが(そしてそれは抽象的な数学では全く正しいですが)、式の持つ意味まで考えると片方がより抽象的、片方がより具体的です。
      ********************
      >>静止エネルギーE-mc^2はcが定数です。気体の状態方程式pV=nRTはRが定数でnが(いくつ)です。

      これについても化学法則、物理法則と安易に関連付けたのは軽率でした。しかし(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味を持つ式やそれに類する式ではそのようになっているように思います。もちろん科学法則には必ずそういう決まりがあるというつもりは全くありません。
      気体の状態方程式ですがこの式は何が変数で何を定数なのか場合によって変わるのでたしかにnが(いくつ)になることもありますが、nが定数になり、(いくつ)ではない場合もあります。
      E=mc^2でcは定数ですが、定数の自乗なので少し事情が違うのではないでしょうか。正直に言うとこの式を含め相対論を完全に理解しているわけではないのでそれ以上は言えません。
      ********************
      >「こういう時はこうだよ」とはっきりと指示をしたほうがすんなりと覚えられる。
      「こうでもいいし、ああでもいい」という場合に「こうだよ」と教えるだけならかまいません。
      しかし、「ああでもいい」と”教えない”ことと「ああでは駄目」と”教える”ことは全く違います。

      これも確かにおっしゃる通りですが、ことこの問題に関してだけは「ああでは駄目」と教えたとしてもその後のその子の数学教育においてなんら支障はないと考えます。「ああでもいいと教えない」のか「ああでは駄目と教える」のかは先生次第です。
      ********************
      >>後というのが2年の掛け算の授業の後半を指すなら、それでもいいでしょう。

      「後」というのはその子が疑問に思った段階でいいと思います。もちろんそれには教師は対応しきれないので親とか周りの大人が教えれば済む話です。そして疑問に思わなければ特に教える必要はありません。この返信の最初のほうで書いた通りです。
      ********************
      >>そういう場合もありますが、それが全てではありませんよね。理解した上で順序が逆の場合も少なくありません。
      >>順序が逆でなくても「答えと単位が同じ方が先」としているだけで理解していない場合もあります。理解しているかどうかの確認方法としては不適切です。

      理解しているかどうかの確認方法として不適切という指摘はその通りだと思いますが、実際の現場では普段の授業態度とか成績など個人個人を見たうえで、この子は普段の様子からして明らかに理解していないという判断でバツをつけているケースが大半かと思います。もちろん答案だけで機械的に丸付けをする先生もいるかもしれません。しかし十分分かっているのに不正解にされるという理不尽なケースは例外的にしかないです。もちろん全国の小学校を調査したわけではないので「・・・という場合が最も多い」と断言したのはよくなかったですね。このへんのことは地域によって、あるいは学校によって事情が違うかもしれないのでどの先生でも見解が一致するとは限らないかもしれません。
      ********************
      >>逆順がバツなら、理解してない子もバツでしょうが、理解してたうえで逆順にした子にもバツをつけていることになるでしょう。

      「理解してたうえで逆順にした子」というのがほとんどいない(いたとしても例外的にしかいない)だろうという趣旨の主張です。これについては統計を参考にしたわけではないのであくまで個人的な感覚ですが、実際そうだと思います。
      ********************
      >>トランプ配りや「兎4羽の耳は1羽2本の4羽分か片耳4本の両耳分か」「三色団子4串の団子数は1色4個の3色分か1串3個の4串分か」のように、どちらが1つ当たりでどちらが幾つ分かは決まっていないという意見に対する反論はありませんか?

      これについても言いたいことがあるので後日時間のある時に更新します。

  2. 通りすがり より:

    >(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の式については交換法則が成り立たない(あるいはもっと穏当に交換法則を意識する必要はない)と大人になるまで考えていても問題ありません。
    とんでもないことですね。
    あなたの考えが、こちらにとって受け入れることのできないものであることは分かりました。
    >あくまで「Aさんの家の範囲内で次の法則が成り立つ」としただけです。
    その範囲は「(ひとつあたりの数)×(いくつ)の範囲」よりも狭いですよね。
    >一人当たりの肉の量に比例するということはできません。
    一人当たりの肉の量が変数にならない「Aさんの家」に限れば、ですね。
    >「ひとりあたり50g」という情報に「ひとり」という人数の情報が含まれていますから「家族4人」という情報は「ひとりあたり50g」という情報に依存していると言えます。
    その人数の情報は別個のものです。直方体で「底面が横1m、縦50cm」という情報に「1m」という長さの情報が含まれているから「高さが4m」は依存していると言うようなものです。
    「家族4人」「ふたりあたり100g」という情報から4人×100g/2人=(4×100/2)gと計算することもできるんですよ。
    「ひとりあたり50g」という情報がある場合に「合計200g」を求める上で欠けている情報は「家族4人」だと言うことならできますが、これは「合計200g」が「家族4人」(と「ひとりあたり50g」)から決まるということです。「質量50kg」から「運動量(勢い)200kg・m/秒」を求めるには「速度4m/秒」が必要ですが、4m/秒が50kgに依存しているとは言いませんよね。

    • hishakaijin より:

      >>とんでもないことですね。
      >>あなたの考えが、こちらにとって受け入れることのできないものであることは分かりました。

      そうですね。このあたりの話は完全にこちらの考えを受け入れてもらえるとは思っていません。とんでもないと思われるのもよくわかります。数学だけでなく教育まで考えるとそのほうがいいという意見です。
      ***************************************
      >あくまで「Aさんの家の範囲内で次の法則が成り立つ」としただけです。
      その範囲は「(ひとつあたりの数)×(いくつ)の範囲」よりも狭いですよね。

      このご指摘の意味はちょっとよくわかりませんが、(ひとつあたりの数)×(いくつ)という式が成り立つ対象の数が多いか少ないかというのは考える意味がありません。範囲が狭くても広くても普遍的であると言えます。
      ***************************************
      >>一人当たりの肉の量が変数にならない「Aさんの家」に限れば、ですね。

      Aさんの家で(ひとつあたりの数)×(いくつ)という法則が成り立つと前提した上での話です。別の家でのカレー作りで(ひとつあたりの数)×(いくつ)という式を立てることができないという前提であればそもそも正比例か複比例かという話はできなくなってしまいます。
      ***************************************
      >>その人数の情報は別個のものです。直方体で「底面が横1m、縦50cm」という情報に「1m」という長さの情報が含まれているから「高さが4m」は依存していると言うようなものです。

      これについては語弊がありました。「人数の情報」ではなく「人数という情報」です。人数が4か3かあるいは6かといった情報は確かに依存しませんが、単位が(人)であるという情報は依存しています。直方体はここでの計算とは意味が違うので関係ありません。
      ***************************************
      >>「家族4人」「ふたりあたり100g」という情報から4人×100g/2人=(4×100/2)gと計算することもできるんですよ。

      「家族4人」「ふたりあたり100g」という情報は同時には出てこないということを言っています。すでに両方の情報が出た後のことを考えているようですが、どちらの情報がはじめに出てくるかと言えば必ず「ひとりあたり何g」という情報です。
      ***************************************
      「ひとりあたり50g」という情報がある場合に「合計200g」を求める上で欠けている情報は「家族4人」だと言うことならできますが、これは「合計200g」が「家族4人」(と「ひとりあたり50g」)から決まるということです。「質量50kg」から「運動量(勢い)200kg・m/秒」を求めるには「速度4m/秒」が必要ですが、4m/秒が50kgに依存しているとは言いませんよね。

      運動量はここで取り上げている正比例的な考え方ではなくてあえて言えば複比例的な考え方なので別の話です。もちろん4m/秒が50kgに依存しているとは言いません。ここで言いたいのは(ひとつあたりの数)×(いくつ)という正比例に基づいた式おいて(ひとつあたりの数)という情報が必ず先に出てくるということです。これについてはあまりお判りいただけないようですが実際そうなっています。

  3. 通りすがり より:

    >このあたりの話は完全にこちらの考えを受け入れてもらえるとは思っていません。
    “意見”としてはそれでいいのですが、それで”擁護”になるのでしょうか。
    >このご指摘の意味はちょっとよくわかりません
    「Aさんの家の範囲」が「(ひとつあたりの数)×(いくつ)の範囲」よりも狭い、特定の条件の下にあるAさんの家に限って成り立ったところで全ての「(ひとつあたりの数)×(いくつ)」で成り立つわけではないということです。
    「普遍的な法則というのはAさんの家のような狭い範囲でも成立する」はいいんですが、「Aさんの家の範囲内に限って様々なときに当てはめることができるので普遍的」では話が違ってきます。
    >どちらの情報がはじめに出てくるかと言えば必ず「ひとりあたり何g」という情報です。
    いや、情報は問題文に書いてある順に出てくるでしょう。日常生活においても、(いくつ)が先に決まっていて後から(ひとつあたりの数)が決まることは少なくありません。

    • hishakaijin より:

      >>“意見”としてはそれでいいのですが、それで”擁護”になるのでしょうか。

      意見を主張することが擁護するということになるんじゃないでしょうか。そうじゃないというならそれまでですが、まあ擁護しようとする試み程度に考えてもらってもいいです。この記事で主張したような意見が教育的観点からすると筋が通っていて合理的だと思っているので反対派の人を納得させることができてもできなくても一応擁護ということになるのんじゃないかなと思ってました。この話題はもちろん数学についてですが教育も同時に考えないといけませんから、たとえば人間の知能の発達とか認知の仕組みなど科学的に解明できていない範疇のことを加味しないといけないためどちらの立場をとるとしても完全に論理的に進めることができる性質のものではありません。結局この問題が解決しないのはどちらの立場でも教育に関しては主張を言い合うしか方法がなく、まともな議論ができないということに原因があると思います。仮に理想的な議論ができたとしても論破はお互い無理でしょう。
      ************************************
      >>「Aさんの家の範囲」が「(ひとつあたりの数)×(いくつ)の範囲」よりも狭い、特定の条件の下にあるAさんの家に限って成り立ったところで全ての「(ひとつあたりの数)×(いくつ)」で成り立つわけではないということです。
      >>「普遍的な法則というのはAさんの家のような狭い範囲でも成立する」はいいんですが、「Aさんの家の範囲内に限って様々なときに当てはめることができるので普遍的」では話が違ってきます。

      Aさんの家の例でこの記事で主張しているようなことが仮に当てはまったとしても、他に無数にある(ひとつあたりの数)×(いくつ)という計算すべてに当てはまるわけではないということでしょうか。すべての場合で必ずそうだと厳密な証明はできませんがこの類の計算を見渡してみると経験的にAさんの家の例で説明したようなことが(ひとつあたりの数)×(いくつ)という計算すべてに当てはまるだろうと思われます。
      そして「普遍的」という語の意味の認識に違いがあるようですが、ここでは普遍的というのは特殊の対義語として使っているので必ずしも「あらゆるすべての場合で・・・」といった意味ではありません。「Aさんの家の範囲内に限って様々なときに当てはめることができるので普遍的」というのは「50(g/人)×何人という法則がAさんの家の範囲内における普遍的法則」という意味でした。
      ************************************
      >>いや、情報は問題文に書いてある順に出てくるでしょう。日常生活においても、(いくつ)が先に決まっていて後から(ひとつあたりの数)が決まることは少なくありません。

      たとえばこの類の計算の問題を作成するときのことを考えると、ある作成者が先に4人の人がいるとしよう、と考えたとします。しかしこれは(ひとつあたりの数)×(いくつ)という図式を作ろうという意識が頭にないとできないことです。4人と考えた時点ですでにあらかじめ(ひとつあたりの数)の分母が人数であることが念頭にあります。
      「情報は問題文に書いてある順に出てくるでしょう。」ということですが、あらかじめ用意された問題について言っているのではなくこの類の計算を発想する段階のことです。言いたいのは人間の頭の仕組み、あるいはどうやって物事を認知するかというときに(ひとつあたりの数)が先に出てくるのが自然だからそう教えるべきであるということです。日常生活においても頭に何も思いついていないという状況から始めると(いくつ)が何であるか先に決まるというのはあり得ません。確かに日常生活で一見すると(いくつ)が先であるように思われる例はたくさんあります。例えば結婚指輪を2個買わなければいけない→ひとつあたり100000円のものにしようか150000円のものにしようかといった場合。2個という数字があらかじめ決まっているのでこれが先だろうと思われると思います。しかし問題としているのは意味、つまり単位であって数字が何かではありません。ここで結婚指輪の(個)が出てくるのは(円/個)という単位が先に念頭にあるためです。この辺のことはどちらかと言えば数学ではなくて哲学的な範疇の話ですからこれについて納得できないというのであればこれ以上説明のしようがありません。

  4. 通りすがり より:

    (ひとつあたりの数)が無くても「家族4人」は人数ですし「結婚指輪2個」は個数ですよ。「家族4”人”」という情報があるのに「家族の数は4。しかし(ひとつあたりの数)の情報が無いので人数なのかは分からない。もしかしたら家族4冊かもしれない」なんてことはありません。
    (ひとつあたりの数)×(いくつ)になる問題を作ろうと思っている場合に、先に4人の人がいるとしようと考えたのなら、それは(ひとつあたりの数)の分母の方が4人に依存しているでしょう。
    私が問題を解く場合、まず(ひとつあたりの数)(いくつ)といった情報を得て、そこから必要に応じて「掛ける」のような演算が出てきて、結果として(ひとつあたりの数)×(いくつ)になるという順番になります。
    (ひとつあたりの数)(いくつ)の情報抜きに(ひとつあたりの数)×(いくつ)という図式は出てきません。労働者4人という情報があって労働日数が3日であれば労働力は4人×3日=12人日、ひとりあたり50gという情報があってグラムあたり10円であれば50g/人×10円/gで1人あたり500円ということが分かり、「(ひとつあたりの数)×(いくつ)の図式は作れませんでした」で終わります。結婚指輪2個を買うことにして内1個が10万円でもう1個が15万円なら10万円+15万円=25万円です。
    鉛筆3ダースを買うことにして1本当たり20円だったなら、20円/本×3ダース=720円で(ひとつあたりの数)×(いくつ)の図式と言えますが、ダースが出てくるのは円/本があるからなんですかね?

    • hishakaijin より:

      なるほど。ご指摘の点についてもいろいろと言いたいことがありますが今日は詳しいコメントを書く時間がないので明日の夜にでも返信をします。せっかくコメントいただいたのにすぐに返事ができず申し訳ありません。

    • hishakaijin より:

      すみません。昨日はコメントで返信するつもりでしたが書いているうちに内容が膨らんできて、順序についての重要な論点がいくつか出てきたので近日中(1~2週間くらい)にこの記事内にそれとわかるように追記するという形でコメントへの返信の代わりとさせてください。依然として順序があるという考えに欠陥はないと考えていますしあなたの順序についての指摘もいろいろと誤解や思い込みがあって誤りであると思っていますが、あなたにもこの記事を読んだ批判派の人にも順序があるということについて納得してもらいたいので中途半端な分かりにくい回答だと結局堂々巡りになると思いますしコメントで指摘してもらった点もすべて含め初めからきちんと整理して本文内で順序の根拠を提示したいと思っています。まだここを見ているか分かりませんがせっかく時間を割いて何度かコメントしていただいたので一応報告ということで。

  5. 通りすがり より:

    来週以降は忙しくなるので、せっかくですが、これで話は終わりにしようと思います。
    「(いくつ)の単位が人数であることが決まらない」については確かに何かしら誤解しているのでしょう。あなたの主張が正しいのか間違っているのか以前に、何と主張しているのかを意図通りに受け取れている気がしませんでした。
    他の点については互いの前提に相違があるように感じられました。私は自分の前提の方が正しいと思っていますが、思い込みと言えば思い込みですね。
    ここまで何度も丁寧に応じていただき、ありがとうございました。

  6. 西向く侍 より:

    >小学校低学年の段階では(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の計算については
    >交換法則は成立しませんと教えても支障はないし(むしろ教育的観点からはそのほうが良い)

    支障がないというのは本当なのですか?
    これは何か根拠がある話なのでしょうか?
    単なる思いつきか思い込みなのではないでしょうか。

    • hishakaijin より:

      コメントありがとうございます。
      うーん確かに統計的な根拠に基づいての主張ではないので支障がないというのが絶対だとはいえませんね。でも実感としてはそうだということです。乗法の交換法則というのは小学校の段階ではわざわざ明確に意識させる必要はなく、教えるなら長方形の面積の計算とかそれに類する計算で教えるべきであって(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の計算については順序があるとして教えたほうが混乱せずに素直に理解できるという考えです。統計的にどうこうということは言えません。しかし反対にそれが弊害であるというのも結局同じように思い込みの一種で教育上の明確な根拠もないのでどちらがいいかという絶対的な結論は出ないと思います。「交換法則は成立しません」と積極的に教える必要もないと思いますが、先生によって成立しませんと教える人がいたとしてもそれが(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味についてだけであればその後の数学の理解にも日常生活でも支障がないです。それを拡大解釈して抽象的な数式にも意味と順序があるとして理解するのは弊害と言うべきですが小学校で掛け算を習ううちに交換法則が成り立つ意味の計算も扱うので(ひとつあたりの数)×(いくつ)という意味の計算で順序を習ったがために中学高校になってから交換法則の理解に支障が出るということはあり得ないと思います。

  7. 西向く侍 より:

    ご回答ありがとうございます。
    特に根拠が無いということで了解しました。

    >中学高校になってから交換法則の理解に支障が出るということはあり得ないと思います。

    いい大人になってて「掛算には順序がある」と本気で言っている人がいくらでも
    居ることからすると、かなり現実の認識がずれているのではないでしょうか。

    • hishakaijin より:

      >いい大人になってて「掛算には順序がある」と本気で言っている人がいくらでも
      居ることからすると

      小学校の掛け算教育の導入でこの記事で取り上げているような意味の掛け算について順序にこだわる人はわりといると思いますが、一般的な掛け算に順序があると言っている人は聞いたことがないです。この記事でも書いたようにすべての掛け算に順序があるとは思っていません。