過大評価されすぎのAI、スマートスピーカーとか言うおもちゃ

ここ数年AIが過大評価されまるで夢の技術のようにもてはやされている。門外漢の素人ならばいざ知らず専門家と言われるその世界で食っている人たちまで同じような夢物語を平気で語るというのはどういうことだろうか。

今世間でAIと言われているのはいわゆる弱いAI、つまり自分で考えたり認識したりすることはできず、単にあらかじめ人の手によってきれいに整えられた単純な情報を命令にしたがって機械的に処理をするプログラムでしかない。弱いAIが優れているのは短時間で膨大な情報を処理できるという一点のみである。しかしその情報というのは機械が処理できるような種類のものでなければならないのでかなり限られてくる。使いどころによっては絶大な効果を発揮するが、あらゆる分野を席巻すると考えるのは行き過ぎだ。

この投稿を書こうと思ったのは最近ミーハーの家族がスマートスピーカーなるものを購入したから。しかし実際に使っているのを見てみるとスマートとは程遠く、子供のおもちゃをちょっとスタイリッシュにしたようなお粗末なものである。音楽はスマホで操作したほうが便利だしテレビも照明も専用のリモコンを手で操作したほうが負担が少ない。知りたいことは自分で検索したほうがはるかに早く正確である。いちいちスマートスピーカーに話しかけていたのでは期待する結果が返ってこなかったり、音声がうまく認識されないことが多くてストレスがたまるだけだ。

こういう本質的には新しいくないんだけど、さも近未来の最新機器であるかのように宣伝されている道具に飛びつき、本心では「案外しょぼいな」と思っていても最先端の生活を享受していると思い込みたいがために自分に素晴らしいものだと言い聞かせているのである。そう考えるとかわいらしいものだが、スマートスピーカーに限らず最近AIが過大評価されすぎているのは見過ごせない。

肝心なところは後回し

AIのことをよく知らずに過大評価している素人に限らずその分野で食っているプロのなかにもこの話題について技術的な限界を指摘されると、「今はまだ始まったばかりだから」とか「これから技術革新があって問題は解決される」などというセリフを吐く人がいる。技術革新を予知するなんてSF作家みたいだが、一部の技術者とか科学者というのは自分の専門分野については細かいことにうるさいくせに専門外の人間の認知や心身問題みたいな強いAIを実現するうえで避けて通れない本質的な話になると途端に地に足がつかないようになり、ふわふわとした夢物語を平気で口にするようになる。

こういう人たちを見ていると中高生が夏休み前に「あの問題集とあの問題集とあの問題集をやれば数学を完ぺきに仕上げることができるはずだ」といって勉強の計画を練っている姿を思い出す。ご存知のように計画を組み立てるのと実際にやるのとでは大違いで、当初の壮大な計画は達成されないことのほうが多い。人間は実態がよくわからないことについて途方もない計画を立てがちである。よく知っていることについては「せいぜいこれくらいだろう」と現実的で手の届く計画を立てる。AIに関してはそもそも何をどうすれば強いAIができるのか全く分かっていないにもかかわらず、楽観的な人たちによると将来的に「どこかの天才が」「革新的な技術を開発し」夢のようなAIが実現するらしい。でもそれはいったいどこの誰だろうか。そしてその人は何をどうやって新しい発想を生み出すのか。全く分からない。

また楽観的な人たちは現在のAIというのはいわば人間の子供のようなものでこれから成長していくのだから温かく見守るべきだとも言っている。しかしこの例えはAIが人間の子供のように必ず成長するという前提に立っているという点で不適切である。おそらくAIは近いうちに頭打ちとなり再び冬の時代を迎える。というのも現在のAIに使われている技術というのはパターン認識を実現するためのものでしかなく、パターン認識の精度をどんなに上げてもそこから心は生まれないからである。楽観的な人たちがやっているのは成長する見込みのある子どもを見守っているのではなく、例えばオウムに向かって一生懸命に言葉を教え、「このオウムは賢いから時間がたてばいずれ人間と自由に会話ができるようになるはずだ」と言っているようなものである。本人がそう信じているなら結構なことだが、傍から見ればただのアホだ。強いAIと弱いAIというのは本質的に全くの別物なので、これらを混同するのは人間の子供とオウムを同一視するようなものである。仮に将来的に強いAIが実現したとしてもそこに使われている技術というのは現在のAIで使われている技術とは全く関係のないところから生まれたものであるはずだ。なぜなら現在のAIの本質はパターン認識でしかなく、人間の認知というのは本質的にパターン認識ではないからである。オウムが成長しても人間にはならないように弱いAIが成長しても強いAIにはならない。

スマートスピーカーにしてもそうだ。音声認識はこれからどんどん精度がよくなると皆口をそろえるが、それは幻想である。なぜなら現在採用されている音声認識も結局はパターン認識でしかないのでパターンに収まりきらないと一切処理できなくなるという問題は絶対に解決できないからである。そしてあらゆる状況をパターン化するのは不可能なので、いつまでたっても弱いAIにたいしてこちらが気を使って聞き取りやすいように分かりやすい単語で発音しないといけない。人間の声を実用に耐える程度に認識し処理するのは強いAIでないと不可能であることは明らかである。あるいは強いAIの夢物語ではなく現実的に弱いAIをいかに実用化するかということを考えていると言う人もいるだろうが、弱いAIを音声認識のような分野でも使えると思っているのは結局AIの幻想から抜け出せていないというしかない。画像認識と音声認識は別物である。使いやすいようにきれいに整えられた画像や音声ならともかく人間の多様な声を自由に処理できる機械を作るうえで弱いAIの出る幕はない。さらに車の自動運転もたびたび話題になるが、これも実際の路上で完全に自動運転にするためには強いAIでないと不可能である。現在開発されている自動運転は倫理的、法的な障害ばかりが強調されているが技術的にも解決できていない問題は山ほどあってそっちのほうが重要である。弱いAIは想定外の事態には対処できないという点でAIによる自動運転は原理的に絶対に実用化できないし、いずれ計画は頓挫することは目に見えている。

昨今のAIブームは単純作業をAIで置き換えるという現実的な問題を解決するだけで終わるだろうと思われる。それ以上のことは強いAIなしでは語れない。意識を持っていたり臨機応変に環境に対応できるAIを生み出すには、人間が環境とどうやって交渉しているのか、そして心と身体をつなぐものは何か、あるいは心と身体という二元論自体正しいのか、などとという途方もない難問がいくらもあって、それらを解決せずに強いAIは実現しない。そしてそういうのは時間が解決してくれる性質のものではない。

宇宙人についての知識が全くないから私たちは自由に宇宙人を想像しそれを語ることができる。同じように人間についてよく知らないから、人工の機械でも人間と同じようなことができるだろうと自由に想像し好き勝手なことを語ることができる。昨今のAIへの過度の期待というのは私たちの人間に対する無理解を如実に示しているような気がしてならない。