最近の発達障害ブームの異常さ

ここ数年の間に発達障害という考えが世間に浸透してきている。おそらくNHKを筆頭として発達障害の啓蒙(布教)番組が盛んに作られているのが原因の一端になっているだろう。巷ではそういう啓蒙活動を疑問に思わない素直な人たちが専門家の権威に目がくらんでか何なのかはわからないが盲目的に信じ切っていて自分も布教する側に積極的に回るという異常な事態となっている。発達障害が注目され始めた時からこの流行はおかしいと思っていたのでこれまで考えたことをまとめておく。

発達障害という概念を受け入れたくない理由

有無を言わさず発達障害認定をする怖さ

精神的な病気というのは身体的な病気と違って病気かどうか断定できないという致命的な問題を抱えている。ある病んだ人が癌か否かはある程度客観的に正確に判断できるが、べつのある病んだ人が発達障害かどうかは正確に判定できない。発達障害的な特徴はすべての健常者が持っているし、どこまでが正常でどこからが異常かという判断はかなり恣意的なものだ。身体的な病の場合、精密な検査をすれば「確実に癌です」ということはできるが精神障害の場合「確実に発達障害です」とは判定できない場合が多い。「発達障害の傾向があります」というような言い方がまかり通っているのが何よりの証拠だろう。「癌の傾向があります」とか「骨折の傾向があります」なんてことはまずありえない。

人と違うところを気にしていない場合、自分自身で治療など必要はないと考えている場合はどうだろう。癌や糖尿病などの疾患は早期発見して治療しなければ生死にかかわるが、精神疾患は治療しなくても死ぬことはないし、そうした特徴を初めから気にしなかったりあるいは自分なりに受け入れて生きていくこともできる。しかし発達障害という考えが広く受け入れられてしまうと「他人と少し違う個性をもった人」が「治療すべき障害を持った人」へと強制的に変わってしまう。発達障害が広く受け入れられた世の中では、少しでも発達障害的特徴を見せれば「ああ、この人は障害を持っている」と思われるだろう。当人がどう思っていようが関係なく障害者として社会に受け入れられるようになってしまう。本人は治療の必要などないと思っても他人は「異常だから治療すべきだ」と思うのである。

発達障害という考え自体が普通であることを強要している

発達障害と診断された人が必ず口にするのが、「自分の生きにくさが障害であることが救いになった」とか「診断される前は”普通”でいることのプレッシャーがあった」というようなこと。

ここで注目したいのは彼らは発達障害と診断された後でも「普通でなければならない」という考えを捨てきれていないということだ。彼らの人生の不幸の原因はほかの人と同じことがうまくできないことそれ自体ではなくて、「普通」という理想像と同じでなければならないという強迫観念にとらわれてしまっていることにある。発達障害というのは「普通でなければならない」という枠組みを受け入れたままその中に自分の居場所を提供してくれる考え方であって彼らの中に巣くっている「普通でならなけらばならない」という強迫観念を除去してくれるわけではない。発達障害という概念の致命的な欠陥は彼らの心の問題の根本的な原因を見誤っていることにある。彼らに本当に必要な治療は「普通でなければならない」という理想を捨てることであって「普通」になるようにすることではない。

発達障害を歓迎する人は整形依存症の人間とよく似ている。整形依存に必要な治療は鼻を高くしてやったり目を二重にしてやることではなくて理想的な顔でなければならないという信念を捨てさせることだろう。「私は実は発達障害という病気だったんです」と嬉しそうに語る人にはまるで「私は実は一重という病気だったんです」と言うのと同じような違和感を感じる。

問題なく社会生活をしている人もある面では「正常」で、ある面では「異常」である場合がほとんどではないだろうか。すべてが普通の人、すべてが正常な完璧な人は実際には存在しない理想でしかない。実際には誰もが異常な一面を持っているのにそれを病気認定し治療してありもしない「正常な」理想像に近づけようと努力する必要があるだろうか。「”普通”を強要されるのが嫌だった」というのはその人自身が「普通」という考えをだれよりも受け入れていたからだ。誰かが強要していたのではなく自分自身が強要していたのである。

医者がなぜ精神病認定をする権限を持っているのか

特に問題だと思うのは医師という資格を持った人間が精神病を認定する特権的な役割を担っているということだ。病気の診断は身体的な病と精神的な病を分けて考えなくてはいけない。身体的な病の領域は一応科学的で客観的なものだけれども精神的な病の分野は科学的、客観的な領域にしようという努力にもかかわらずいまだに前近代的な不明瞭な部分を多く含んでいる。迷信レベルの思い込みを科学的な装いでカモフラージュしただけというのが現状ではないだろうか。あいまいで非科学的な概念を使ってある人が精神的に異常かどうかを判断できるとするのはおかしい。

そしてさらに問題なのは、医者以外の人間は身体的な病に関しては完全な素人・門外漢であるのに対して精神的な病に関しては医者と同程度か場合によってはそれ以上詳しい場合もあるということである。私たちは精神医学とか心理学を学ばなくても生まれつきある程度相手の考えていることがわかるし、自分や相手がどういう心理状態にいるのかをなんとなく推測することができる。でも身体的な病の場合はそうはいかない。私たちは解剖図を見て勉強しなければ自分の腹の中がどうなっているのかさえ知ることができないし腕にどんな骨があるのかも正確にはわからない。体の病と心の病とでは根本的に別物であることは明白だろう。体の場合は大学で6年間勉強し臨床経験を積んだ医者に特権的な診療の権限が与えられるのは当然といえるが、心の問題は医者だけでなく誰もが日常向き合っている問題なのに、どうして医者や専門家だけが特別詳しいと考えることができるのだろうか。外科医が人体に詳しいからといって同じように精神科医は心に詳しいというのは間違いではないだろうか。これに関して精神科医やカウンセラーは「自分のことは自分が一番よくわかっているというのは誤りで客観的に第三者が見たほうが正確に判断できる場合もある」ということを言うだろう。しかし私たちが日ごろから一番気にかけているのは自分自身のことであり昨日今日知り合ったばかりの他人に自分の心が本当に理解できるとは思えない。いやそういう場合も確かにあるかもしれないがそれは日々の生活に忙殺され、立ち止まって自分のことを考えたことがあまりない人にしか当てはまらないだろう。ある程度自分の心と向き合ったことがある人であればその人が一番自分に詳しいはずだ。そして精神的な領域は第三者だからといって客観的であるというのはありえない。心の問題は科学とは本質的に相容れないので誰が見ようが恣意的な要素は排除できない。精神科医が誰かを診察してもそれは医者の主観に依存するから客観的ではなく主観的である。

過剰診療へ

昨今の流れを見ていると発達障害だけにとどまらず精神疾患の過剰認定を行う社会がすぐそこに来ているように感じる。精神障害は身体的な病と違って診断基準ありきなのでどこからどこまでを病気にするかは精神科医の考え次第になる。人生で感じるちょっとした生きにくさ、ありがちな不幸がすべて先天的な精神疾患と診断され、ほとんどすべての人が精神病患者になる社会が果たしていいのだろうか。