日本人の演技がへたなのはなぜか

物心ついたころから日本のドラマ、映画での芝居にたいして言いようのない違和感を抱いてきた。監督や脚本家をはじめとするスタッフは本当に本心からああいうものを作りたいのだろうか?演者は本当にあんなお芝居で納得しているんだろうか?誰か日本のお芝居のどうしようもない稚拙さに気付いている役者はいないんだろうか?洋画と邦画の間に横たわる絶望的なほどの差を当事者たちはどう思っているんだろう?日本の演技に対する批判は彼らには届いているんだろうか?考え出すときりがない。

このテーマにはお決まりの答えがいくつかあって、その一つに「日本語だから演技のアラに気付くだけだ」というものがある。この説によると英語の母語話者であれば英語の演技も不自然に感じることがあるだろうし、英語の母語話者は日本語がわからないから日本人の演技は自然に見えるのだという。本当にそうだろうか?少し調べればおそらくこの説は間違っていると言えるいくつかの証拠が見つかる。たとえば、次の記事では英語の母語話者が日本語の演技の不自然さを指摘している。

3 reasons Japanese movies today suck, according to distributor and producer Adam Torel – Japan Today

また、デーブスペクターのインタビュー記事がネット上に公開されており、そこでも日本の演技の質が低い原因について主張を展開している。

名前は出さないけれど、すごく有名で人気のある役者でも下手な人が多すぎる。演技が古くさくて、ナチュラルじゃないんです。

全テレビドラマやめるべき…デーブ氏が提言「下手な役者多すぎ」「芸能プロの意向優先」

言うまでもなくデーブスペクターは英語の母語話者であり、日本語も流暢である。

さらに、「日本人がハリウッドで成功しにくい理由」というyoutubeに投稿された動画では、日本語と英語のバイリンガルが、批判こそしていないものの、日本の演技とアメリカの演技とは別物であるということを指摘している。

もちろんたったこれだけの証拠で断定はできないが、反対にアメリカの演技がダメで日本の演技は素晴らしいなどという主張はネット上を探しても出てこない。どうやら日本語の母語話者であるから日本語の演技のアラを敏感に感じ取ってしまうという説はあやしくなってきた。

では、何が日本の演技に対する違和感を引き起こしているんだろうか。

リアリティあってのフィクション

日本人役者の演技についての違和感は突き詰めると「リアリティがない」という一点に行きつく。現実味のない不自然なやりとり、日常生活ではまずお目にかからないような人工的でちぐはぐな会話、そしてドラマと映画の中だけで許される訳の分からないお約束の数々。考えただけでげんなりする。

そうした不自然さを指摘する人はもちろん今まで数多く出てきたが、そうするとこんどはドラマや映画はフィクションなんだから現実と違ってもいいじゃないかというような意見がでるのがお決まりである。現実にはあり得ないことが起きるのがドラマであるというわけだ。もちろんそれは否定しない。厳密な考証のもと現実にしか起きないことを忠実に映像化しろなどという極端なことを言うつもりはない。言いたいのは「フィクション」とは「なんでもあり」のことではないということだ。ピンチを救うヒーロー、異次元の世界、胸躍る魔法の数々、こうしたものは「実際そういう話があっても不思議ではない」と思わせるような現実味、リアリティが根底にあってこそ成立する。

「フィクションの根底にある現実味」というのは何かといえば、役者のセリフ回しとか所作、つまり「人間らしさ」のことだ。これまでに作られたどんな虚構作品を見てみても、作中の出来事・社会制度・物理法則が全く現実離れしているというのはいくらでもあるが、主要な登場人物の動きや喋りはどの作品でも必ず現実の人間に基づいている。登場人物全員がアメーバ状の宇宙人でテレパシーで会話するなどという作品は例がないし、動物や宇宙人が主要なキャラクターとなる場合は程度の差はあれたいてい擬人化される。なぜ人がドラマに夢中になるかといえば、それがもし身の回りで起きたらどうだろうか、自分がこの物語に入ったらどうだろうかと空想の世界に浸り、また自分の人生と重ねるからである。そもそもその物語に登場するのが「人ではない」のであればだれがそれを楽しめるだろうか?物語の設定は現実と違っても全く問題がない一方、登場人物の人間らしさだけはフィクションに絶対必要な条件といっていい。

そういう意味で日本の映画・ドラマは、本来虚構でかまわないような、むしろ虚構であるべき出来事とか劇中の社会制度などの表面的なことには中途半端に現実にこだわるくせに、本来一番現実に基づいていないといけない所作やセリフ回しにあるべきはずの人間味とか人間臭さのようなものが全く無視されている。まさに本末転倒というべきだろう。

リアリティがなくなる原因

セリフの順番待ち

日本の演技をおかしくしている原因としてかなり大きい部分を占めているのが「セリフの順番待ち」問題だと思う。役者は台本通りに読むことを期待されているのか、必ず誰かが話し終わるのを待ってから次のセリフをしゃべるようになっている。

そしてセリフを読んでいないときはわき役からエキストラに至るまで一人残らず直立したまましゃべっている人の方を直視して会話に集中し、律儀に聞き入っている。聞き取れずに一度聞き返したり 、相手の言っていることがすぐに理解できずに間が空いたり 、話している途中で別のところに気が移ったり、相手の話が耳に入らなくなったりということは一切ない。会話は緩急がなく台本通り初めから一直線にきれいに流れていく。

順番通りよどみなく流れていく会話と直立不動の人物たちのせいで私たちはただ脚本の朗読を聞かされているかのような気にさせられる。たしかに朗読にしては多少抑揚が効いていてうまいが、演技にしてはかなりへただ。

急に大声で怒鳴る

数年前に龍馬伝という大河ドラマがあったがあれはひどかった。ひどすぎて全部見ていないけども、登場人物の男たちがやたらめったら大声で怒鳴り散らすシーンがふんだんに盛り込まれたドラマだった。あんな人間が現実にいるだろうか。

もちろん怒鳴っていけないとはいわない。筋の通った理由とそこに至る経緯があれば自然な演技になる。しかしたいていは何の脈絡もないところで相手の話をさえぎるように急に大声を出す。これはどう考えてもおかしい。普通急に大声を出されたらびっくりするはずなのに、不思議なもので言われたほうの役者もまるで怒鳴られることを事前に知っていたかのように平然としている。

しかもテレビなどを見ているとこういう大仰な芝居を迫真の演技と評したり鬼気迫ると形容したりしているのである。評価する側も終わっている。

役割語

最近はだいぶましになってきたようだが特に女性の「~だわ」「~のよ」に代表されるような役割語はさっさとやめてしまったほうがいい。年寄りのセリフならまだわからないでもないが、二十歳そこそこの普通の女性が今時オカマしか使わないような女性語を使っているのは滑稽でさえある。

女性言葉以外にも上司語とか子供言葉のような現実では絶対に聞くことができないような役割語がいまだに根強くはびこっている。役割語というのは結局のところ何かと言うと人物描写の手間を省きたいという考えから生まれる製作者側の手抜きだ。その人物がどういうキャラクターなのかということを所作とか表情、セリフの間などの微妙な要素で表現できるだけの力量を持った役者が存在しないからステレオタイプとしての役割語に頼るしかなくなってしまうのだろう。

とはいってもアニメや漫画で見られる露骨な役割語と比較すれば、実写作品の役割語は穏当なほうといえるかもしれない。実写作品では方言のほうがもっと深刻な問題だ。NHKの連ドラをはじめドラマ・映画で使われている方言というのはリアリティを出すためのものではなく、とりあえず簡便な雰囲気づくりのためにその地方の訛りをうわべだけ真似ているだけのものにすぎない。セリフにその地方の方言をとり入れるのは結構なことだけどもやるからには誠実にやってほしい。もちろんその方言にしかない言い回しは通じないので標準語に置き換えざるを得ないが、ほかの地方の人にも通じるようなちょっとした語尾の違いや、特にアクセントは複数のネイティブを監修につけてある程度忠実に再現してもらいたい。残念ながら現在の日本のドラマや映画で満足な方言はまず聞くことができない。割と全国的に広まっている関西地方の方言でさえそうである。ちょっとニュアンスが違うというレベルではなくて、全く意味を取り違えた言葉を全然見当違いのところで連発するのは方言を役割語としてしか考えていない証拠だ。上っ面だけのサル真似だからある意味でその地方の言葉を軽視しバカにしている。とはいえ標準語の演技も満足にできない役者に方言での演技を期待するのは少し酷かもしれない。

ステレオタイプで人物描写する

これは上の役割語のより一般的な話で、日本人役者は演じるキャラクターの人物描写というのを安易なステレオタイプで行いがちである。陳腐なイメージに頼るしか方法がないほど演者の引き出しが貧弱なのだろう。

ある職業の人物になりきるためには実際にその仕事をしている人を手本にするのが当然かと思う。しかし、日本人俳優は自分が見聞きし体験した経験を根拠に役作りしようとしない。彼らは世間のステレオタイプを研究し同じような役を演じた過去の役者を手本として役作りしようとする。結果的には現実離れした映画・ドラマの中だけのお約束が誕生するわけだ。

型どおりの感情表現

日本人役者は感情描写が単純すぎる。

ネット上では日本人は外国人に比べて普段感情を表に出さないのに演技では過剰だから不自然にみえるとかいう意見が目立つがこれは間違っている。日本人でも時と場合によって、また相手によっては感情をわかりやすく表に出す。確かに時によって感情を抑制した振る舞いをすべきであるという文化的な要求があることはあるが、かといって日常的にすべての感情表現を抑制しているというのはあまりに現実を無視した意見というほかない。

日本の演技の感情表現は過剰というよりはむしろワンパターンで多様性に欠けるといったほうが正しいだろう。悲しい場面では露骨に眉間にしわを寄せ涙を流し、腹が立てば周りが見えなくなり突然大声を張り上げ怒鳴り散らす。楽しい場面ではその場にいる全員が分かりやすく大笑いをする。そしてあるときは急に暗くなりぼそぼそしゃべる。日本のドラマや映画を観ていると日本人役者の演技というのは笑うか泣くか激高するか暗くなるかしかなくて情緒不安定だ。それ以外の感情表現があったとしても微妙な程度というものが表現できず全か無かである。

おそらく日本人の役者と制作者は悲しい場面では露骨に暗くなり涙を見せなければ感情が観客に伝わらないとでも思っているのかもしれない。舞台ならともかくわずかな音や挙動も拾える映像作品では事情が違うだろう。ちょっと考えればわかるように現実の世界では感情はちょっとした挙動や顔のほんの少しの動きだけでも読み取られてしまう。人前に出たときの緊張は隠そうと思っても伝わるし、深い悲しみは見せまいとしても隠し通せない。ほんのわずかな動作から感情が読み取られるのが現実なのにドラマでは決まり切った悲しさの表現をこれでもかと盛り込み悲しみの説明をしたがる。

人工的なセリフ

すべての役者に当てはまるわけではないものの、セリフをすんなりと言えずに噛みそうになりながらなんとか着地する役者が少なからずいる。これもおそらく台本をほとんどそのまま読んでいることが原因だと思われる。たとえばわかりやすいところだと橋田壽賀子のドラマがある。渡鬼の登場人物はほとんどが聞いた瞬間にそれとわかる橋田壽賀子独特のセリフ回しで、役者が普段使わないであろう言い回しが多いのでスムーズではない。他のドラマでも渡鬼ほど露骨ではないものの、何人かはそういう役者が必ず登場する。セリフが自分の中で一度消化されたうえで自分自身の言葉として繰り出されるのが本来の芝居のはずなのにセリフを覚えてうまくセリフを追うことが芝居だと勘違いしている。「自分自身の言葉として」というのはアドリブでセリフを変えるという意味ではない。字面は台本と全く一緒でも台本を思い出しながら言っているのと自分が言いたくて言っているのとでははっきりと違う。

たとえばこのシンゴジラのNG集を見れば、日本人役者がいかにセリフを台本通りに読むことに夢中かということがよくわかる。

時代劇なのに現代訛り

当時の会話を完全に再現するのは不可能なのである程度は仕方ないとはいえ、とにかく最近の大河ドラマをはじめ時代物の作品は当時の人の話し方を真似しようなどという気は毛頭なく、見事なほどに全員現代訛りである。字面だけは「拙者は何々じゃ云々」と言っているのに、その辺の若者がしゃべっていそうなアクセントと独特の現代風の訛りのせいで着物も髷もコスプレにしか見えなくなってしまう。

最近のNHKの時代劇は小道具とか時代背景の考証は割と入念に行っているように見えるのに肝心の役者のセリフ回しの時代考証が一切ノータッチというのが本当に不思議だ。1000年前の言葉をどうこうするのは無理だとしてもせめて幕末の言葉ぐらいは現在でも真似できるんだからなぜしようとしないんだろうか。むしろ当時の出来事や歴史的事実の考証はいい加減でもいいから一番重要なセリフ回しを第一に考えてほしい。

批判が日本の演技を良くする

日本人の演技を批判する人はもちろん大勢いるものの、なぜか大多数の人は現状のもので満足してしまっている。今のような日本の演技を幼いころから見させられてきたのでオーバーなのが当然であって、演技とはそういうものだと思っているのだろう。たしかに自然な演技が良いかオーバーな演技が良いかという好みは絶対的なものではないので今の日本の演技のほうが良いという人が間違っているとは思わない。しかし日本の演技に不満があるという人が無視できないほどいるのも事実である。

この記事で述べたようなことを言うと、必ず「具体的にどのシーンのことか」ということを言われる。しかし言いたいのはそういうことではなくて日本人俳優全体に共通するこれこれこういう特徴が下手だということである。具体的にどのシーンかといえばほとんどすべてのシーンだし、どの俳優のことかといえばほとんどすべての俳優と答えるしかない。それほどに日本の演技はレベルが低い。確かにすべての邦画に目を通したわけではないので例外はあるにはあるだろうが、目に付く日本人の演技の大多数が不自然という点で共通しているという事実はうごかしようがない。

演技をしたこともない素人が偉そうに演技を語るなという意見もある。しかし こうした素人相手の商売をする人が「批判をするな」と客に指図をすることがいかにナンセンスであるかということについて改めて言うことはないだろう。演技を見るのはほかでもない素人だ。演技を十分に理解している(と本人は思っている)関係者がお墨付きを与えたものが良いものであると思わないといけないなどという決まりはない。そして演技は学ばなければ理解できないという性質のものではない。誰が何と言おうと自分の直感で良いと思ったものが良いものである。お笑いでもつまらないというとなぜか批判するなという奴が出てくる。お笑いも演技も本質的に素人が価値を判断できる類のものだし、しかも素人相手の商売だから素人が評価するのは当たり前だろう(ただしお笑いと芝居が違うのは日本の芸人はかなりレベルが高いのに日本の役者は異常にレベルが低いということだ。お笑いは面白い人からつまらない人までまんべんなくいるが演技は下手なほうに偏っている)。ほかにもたとえば、同じように素人相手の商売で素人が価値を判断する外食産業では、いくら料理人が「わたしの店の料理はうまいです」と張り紙をしても、また同業者同士でお墨付きを与えあっても、客である素人が自分の舌でまずいと判断すればいやがおうでも廃業せざるを得ないのである。では、お芝居のほうはどうか。残念ながら日本では役者をきちんと批判する文化が全く根付いていない。役者はとりあえずセリフを間違えず朗読できればうまいと評価され、それに多少の抑揚をつけることができれば名優の称号を手にする。しかも悪いことに、昨今は演技そのものではなく演技に対する姿勢、努力する姿勢を評価しようとする風潮がはびこっている。子供の学芸会なら努力を褒めるべきだが、曲がりなりにも専業のプロに向かって頑張ってるからすごいなどというのは逆に馬鹿にしているようにしか思えない。やはり下手な役者にははっきりと下手だという評価を下さなければ今後日本の演技はどんどん右肩下がりになることは間違いない。

コメント

  1. Haruo より:

    私も同じ疑問を長年抱き続けています。いつになったら自然な演技の映画やドラマが見れるのでしょうか?

    原因のひとつに役者、あるいは製作スタッフの日本独特の上下関係にあるのではないでしょうか。テレビなどで見ると新人俳優が先輩俳優を必要以上にリスペクトしている光景を見かけます。このような上下関係の中では長年受け継がれてきた伝統的演技論を新しい世代が否定できない環境にあるように思えます。

    • hishakaijin より:

      コメントありがとうございます。
      そうですね。新人が自分なりの演技論を持っていてもそれを発揮しにくい環境は確かにあるのではないかと思います。それと、そもそもまともな演技論とか演技観を持つことなく俳優業をしている人もかなりいるのではないでしょうか。
      私は業界の人間ではないので推測しかできないのですが、実際に演技に携わっている人が書いた次ような文章は非常に興味深いです。
      http://www.griffith-studio.com/column/001-010/006.html

  2. より:

    海外の、オーディションでその役に合う人間を厳選して、無名でも大作映画の主役に抜擢したりするところが大好きなのに、本当に日本のドラマや映画は何も失敗から学ばないなあと思います。
    この国の監督って売れる映画を作る気はあるんですかね?もう日本はアイデア産むだけに専念して、表現は全て海外に任せた方がいい気がします笑

    • hishakaijin より:

      そうですね。本当に良い作品なら役者が無名でも売れるのに、日本の映画製作者のほとんどは思考停止していて話題性のある役者を起用するぐらいしかやり方が思いつかないんでしょうね。

  3. 隠居希望 より:

    ふと気になって「ドラマ 演技 不自然」と検索したところ、こちらに辿り着きました。
    私の思っていたことが全て言語化されているようにも思え、自分がなぜドラマや邦画の類が苦手(さらに言ってしまえば嫌い)なのかがはっきりと分かって本当にスッキリしました。

    海外ドラマだとそんな引っ掛かりはほとんど感じないのですけどね…。確かに吹き替えや字幕があると多少の違和感(それこそ抑揚や役割語など)は感じますが、邦画よりはかなりマシに思えます。吹き替えは全体的(身体的)な演技ではなくあくまでも声だけの演技ですから、やはり日本人役者の全体的(身体的)な演技が不自然なものということになるでしょうか(かなり主観的なことで恐縮ですが…)。

    • hishakaijin より:

      コメントありがとうございます。
      そうですね。人間の会話はしゃべっている内容だけでなく身体や顔の動きなどの言語以外によるところが大きいですから、そういう言語以外の部分が自然であれば声を吹き替えても(よほど下手な吹替はさておき)違和感が少ないのかもしれません。日本の演技の傾向として台本偏重のためか全体的に抽象的で会話の言語部分(字面)だけを重視しすぎている嫌いがあるように思えます。結果的に演技のセリフ(言語部分)と身体の動き(非言語部分)に矛盾が生じ違和感につながっているというのもあるのではないでしょうか。有名なメラビアンの法則も言語と非言語の矛盾について言っています。もちろんこの理論が絶対ではありませんが・・・。

  4. あらた より:

    解りますが、これは平成以降の話ですね。
    昭和の役者さん、中でも名優と呼ばれる人たちはセリフに凄味がありました。
    力が入りすぎて泣く演技の場面では何を言ってるか本当に聞き取れないほどです。でも、本来「泣きながら何かを喋る」という場面では嗚咽交じりのそれが正しいんですよね。
    今のドラマや映画じゃ俳優は顔だけ泣いててセリフは流暢に出てくるので違和感バリバリです。

    もう一つ付け加えるとしたら、令和現在、海外の役者のレベルも下がってます。
    さすがに日本ほど大根ではありませんし、脚本家の劣化が激しい所が大きな原因なのですが、ハリウッド全盛期のころに比べると明らかに衰退してます。

    • hishakaijin より:

      コメントに気付くのが遅くなってすみません。

      確かに昔の名作に今日の映画ほどの嫌悪感はありませんね。今の製作者や演者は過去の名作や海外の作品を見て自分の作品との違いを何とも思わないのか不思議です。

      海外映画を見ていても確かにダメな芝居や脚本だと感じることはありますね。日本映画と同じで台本を読んでいることがありありと伝わってくる映画もあります。おっしゃるように日本ほどひどくはありませんが。
      それと最近の作品に限ったことではないですが個人的にはアメリカ映画のキスシーンありきで無理やりキスシーンを入れ込む感じがあまり好きではありません。