まとめとかキュレーションと呼ばれるタイプのサイトに特有の表現で「いかがでしたでしょうか」とか「いかがでしたか」という言い回しがある。これに違和感や嫌悪感を抱く人も多いようだ。なぜこの言い回しがうざいと感じるのか、その理由。
日常生活で使わない「いかがでしたでしょうか」
この言い方がなぜむかつくかと言えば日常生活で使うこともなければ聞くこともない言葉だからと言うのが一番大きいと思う。「いかがでしたか」はかろうじて聞くこともあるが、「いかがでしたでしょうか」はまず聞いたためしがない。「いかがでしたか」のほうは目上の相手や第三者がやった行為に対して使うことはなくはないかもしれないが、自分が書いたり作ったりしたものについて「いかがでしたか」というのはよほど自信がないと言えないセリフだろうから口頭で使うという人はかなり限られてくる。それがネット上の文章になるとやたらと見かけるのはおそらくどこかの大手のキュレーションサイトか有名なブロガーが使っていてそういう文法が正しいと無意識のうちに刷り込まれたためだろうと思う。
そもそも「いかがでしたでしょうか」に限らず何らかの言葉に違和感や嫌悪感を覚えるというのはたいていは普段聞きなれない言い回しであるからという場合が一番多い。この「いかがでしたでしょうか」というのもそうで、普段の日常生活で聞いたこともなければ言ったこともないフレーズに違和感を覚えるのは当然だろう。
いかがとも言い難い記事に限って「いかがでしたか」
いかがでしたかと聞く記事に限って低レベルの記事ばかりであるというのも興味深い。この文章はうまいなとか役に立ったなと感じるような記事でこの表現を使っているのを見たことは一度もない。見かけるのはたいてい冗長な文章で字数だけは数千字あるのに中身はその四分の一もないような文章とか、行間がやたらと広くてスクロールが大変な記事とかそういうのばかりだ。自分の文章について「いかがでしたか」と聞くとき、その言外に「この文章に自信がある」とか「きっと役に立ったはずだ」という含みがあるため、実際のしょぼい内容との落差が余計腹立たしく感じる。
最後にまとめがなければいけないという強迫観念
「いかがでしたでしょうか」の根本的な原因としてキュレーションサイトを書いている人たちに共通するのは文章の型として「まとめ」という要素がなければいけないという思い込みに囚われてしまっているということだ。ひとつの記事には必ず何らかの締めがないといけないと信じているため実際には言うべきことが特にないのに仕方なく「いかがでしたか」を使わざるを得ないというのもあると思う。あるいは日本語の文章には起承転結という型があるという間違った観念をいまだに持ち続けているのかもしれない。
そして何より良い文章と言うのはたいてい「結論」→「理由」という構成になっている。まず何より冒頭に一番言いたいことをはっきりと述べた後でそれを詳しく解説するというのがもっとも読みやすくて、読み手のストレスも少なく済む。まとめサイトを書く人はなぜかそろいもそろって冒頭からだんだんと情報を小出しにして最後に結論を持ってこようとする。何かのストーリー物の作品でも書いているつもりなのか知らないが、まとめサイト程度のものにクライマックスなど必要ない。ランキングなどでもそうだ。「○○10選」とかいうタイプの記事はよくまとまっていて役立つものももちろんたくさんあるが、下手だと思うのは10位から降順で紹介する記事。普通一番気になる1位から順番に紹介したほうがいいに決まっているし、内容が充実していると思うサイトではたいていそうなっている。とにかくまとめサイトをはじめとして内容が薄いなと思うサイトに限って結論をできるだけ後に持ってこようとする。要するにオチとかまとめ要素が必要であるという刷り込みが「いかがでしたでしょうか」を生み出す温床になっているのではないだろうか。