妻のことを「嫁」と呼ぶのが気持ち悪い理由

近年自分の配偶者のことを「嫁」と呼ぶ人が増えている。これに嫌悪感を抱く人、あるいはそこまでいかなくても違和感を抱く人は少なくない。

ここでは配偶者を「嫁」と呼ぶのがなぜ気持ち悪いのか。その理由について普段から考えていることを書いておこうと思う。

こういう生活に密着した言葉というのは地域によって、あるいは場合によっては家庭ごとに微妙にニュアンスが異なることがあるので「嫁」についてもそういった地域性を考慮する必要があるだろう。しかし地方によって語の持つ意味とその歴史は非常に入り組んでいて全部把握して論じるのは不可能なので、ある程度は想像するしかない。

少なくとも戦前から戦後しばらくにかけて「家」というものが庶民の間でも重要な意味を持っていた時代、長男は家を継ぎ次男以降の男は養子として他の家に入るか、新家(分家)をだすか、そして女はほかの家に嫁ぐのが普通だった。その頃からの当然の感覚として「嫁」というのはその家に新しく嫁いできた女性を指す言葉だった。つまり嫁というのは家制度の中での概念であって単に男性の配偶者を指す言葉ではなかった。

ただ全国的にみると西日本では事情が違うようで(もちろん西日本と一口に言ってもその地域性は幅広いので一概にいうのは乱暴かもしれないが)大雑把に言うと西日本では舅姑だけでなく夫も自身の配偶者を指すのに「嫁」を普通に用いる傾向があるようだ。あるいは妻と同じ意味で嫁を用いる用法は西日本起源と言っていいかもしれない。

そもそも近頃東京を中心として東日本でも配偶者としての「嫁」が広まっているのはテレビを通じた関西芸人の影響だというのはかなり多くの人が感じていると思うしこれはほぼ間違いないと考えてよさそうだ。ダウンタウンをはじめとしてダウンタウンの腰巾着、雨上がり決死隊、千原ジュニア、などの吉本の中堅が頻繁に言っているイメージがある。そしてそれと同世代かそれより下の世代の関東のお笑い芸人はその影響をもろに受けている。東京吉元の芸人は言うまでもなくバナナマン、アンジャッシュ以下の人力舎芸人、有吉などが「嫁が・・・」と言っているのを何度も聞いたことがある。こういう関東の芸人が嫁を妻の意味で使うことによって東京の一般人が使う言葉にまで影を落としている。また近年はインターネット上でも相当広まっていてSNSを通じてテレビを見ない若者にもかなり影響が及んでいる。

嫁が家制度前提の言葉で封建的なにおいがする

少なくと「嫁=妻」という発想の存在しない地方出身で、さらに祖父母と同居していたりして家というものになじみのある人からすれば「嫁」というのは家制度を前提としたの呼び名、つまり家に嫁いで夫の両親と同居するのを前提とした呼び名であると感じる。「うちの嫁が・・・」と言えばそれはその家の中の立場としての意味合いが大きく、男と女二人の間の関係を言い表す言葉とはとらえられない。女性が自分の夫のことを「私のムコが~」というのがおかしいのと同じ意味で「俺のヨメが~」はおかしい。

そのため昨今の「嫁=妻」という用法に対する不快感・違和感というのはこういった家制度に由来する封建的なにおい、かすかな女性蔑視の影を感じることに原因があるのは明らか。だから自分の配偶者が他人に「うちの嫁がさあ・・・」などと言っていると対等な立場で見られていないと感じるし、両親と同居して家を継いだわけでもないのにどうして嫁と呼ばれるのかと感じるのは当然だろう。

不快だと思う人、思わない人

嫁という呼び方が不快だと主張すると、そういう感覚の全くない人は全然意味が分からず、「じゃあ何て呼べばいいの?家内??奥さん??」とか「なんでもかんでも差別だと思うと大変だよ?」というような私たちからすると見当違いの反応をする。彼らはたいてい核家族で育てられたかあるいは関西地方出身という共通点があるように思う。ようするに自分の祖父母と同居した経験がなく、嫁がその家に嫁いできた人を意味する言葉だという感覚を知らずに育ったので、嫁という呼び方が不快だという主張がなんなのかさっぱりわからないんだろう。

核家族で育って祖父母が自分の母親のことを指して嫁と言うのを聞いたことのない人はテレビの関西芸人が「嫁が嫁が」と言っているのを何の抵抗もなくすんなりと吸収してしまう。たぶんそういうことだと思う。